ケントの3人が交代でコメンテーターをソロで務めるようだ。今日は初回なので、一応通して
観ておこうと思う。YouTube や twitter のコメントには、江川諏訪ロスの書き込みが見うけ
られた。運営側が間違った判断を下したことは確かだろう。
今日から日本橋できものサローネがスタート。遠方より知人が上京するので、夜の酒席に
呼ばれていたのだが、いまはそんな贅沢をできる状態ではない。昨夜、泣く泣く不参加の
連絡を入れた。心底行きたかったのだが我慢だ、いまは我慢…
能楽師 川口さんの FB 投稿「よさこいについて考える」がとても興味深いので防備録と
してシェア(改行は編集させていただいた)。オイラもよさこいに対して違和感をずっと
感じており、論理的に理由を説明できないでしたが、この投稿で霧が晴れ渡った感じ。
「よさこい」について考える
今日は比叡山坂本の律院というお寺での奉納だった。師匠が半能「融」を舞われた。
街のイベントや映像で「よさこい」を見る度に、何か釈然
しまう。コスチューム等には色々(洋風の物など)あれ、よさこい
「日本の祭り」であることを主張しているよ
その違和感を、帰りの道すがら舌足らずにはなると思うが
まずは踊りの質であろうか。阿波踊りや盆踊り、純粋に芸能化した能にいたるまで、
日
として、地霊を鎮める狙いがあるか
つつ下手なノイズを起こさな
いな
のだが、その考えの無いよさこいの踊りは、地面をステ
空間へ空間へアピールする。僕はもちろん全てを見たわけではないが、このポスター
か
祭り、ということで民俗として見ようとする自分の感覚を
断絶なのだと思う。田畑の鳥を追い払う鳴子を持って踊られるが、鳥追いの踊
元にあるわけではなく、民俗の風味付けをした方が「
すいためであろう。そもそも「よさこい」は昭和後半に徳島の阿波踊りへの対
として、民謡よさこい節を元に高知の商工会議所で生
根本にあるのは祭礼ではなく、観光であり、
よさこいの足元
祭りの場で人々が揃いの装束に身を包むのは、共同体の構
ためだった。特に自らをその場に招かれる神の依り代とするために、覆
顔を隠した。祭りに用いられる覆面から目深にかぶる編笠、果ては能面
顔を隠すというのは個を消し、依り代とな
編笠を被って顔が見えるほど顎を上げる振
本質を知らずに用い
神ではなく、
しかし神を持たないよさこいは何を「祭る(祀る)」のだ
据えられた物は、観光を通してのコン
色に染まり、染まった自分達を「人
廊下を練り
それは演出全般やスピーカーを積んだ地方車のデコトラ的
元来、規模や歴史の違いこそあれ、村落もヤンキーも縦割
一体感を促成しようとすれば、
古典的ヤンキーは祭礼に登場する意匠や扮装の、派
自らの美意識としてきたこと
大き
吹き荒れる阿波踊りにも言えることだ。
こういう事を書くとまるで僕が「よさこい」を批判してい
よさこいを通して今の僕らが日本という国の流れの中でど
たいのだ。昭和という民俗破棄の時代を経て、もう一度先祖が生きて
戻ろうとしたとき、よさこいが踏み出した
が、そこに見えるのは踏み出し方、踏み出す方向を忘れて
よさこいの反省を活かして僕らが新たな民俗、新たな祭り
よう)とした時、その核には祭
必然性を与え、人々の心をまとめるのにこんな便利
「祭り」の原義を考えれば当たり前のことだ。でもそれは方便、それこそ縄文時代
からの方便なのであっ
張り出してきたのである。「神」と言うのは自然界で肩を寄せ合う人々が、生存する
あり、先祖達を養ってきた実績で
一つの屋号の下
空間を皆で責任を持ってデザインする意識の放
いにしえの三波春夫ではないが「お客様は神様です」と言
観光客を相手にしていても僕ら
遠い先祖の時代から我々を育んできた
には今のまま拡大するのはやめて、一歩、もしく
と思う。そして我々はひとたび手放してしまった祭りを、もう一度
するタイミングなのだと思う。
朝飯はごはんの上にスライスチーズをレンチンしてカレーがけ。遅めの昼飯はごはんの
上に目玉焼きを乗せてカレーがけ。これで昨日作ったカレーは完食。夕飯は鳥肉と
エリンギの甘酢ケチャップ炒めと胡瓜の柚子漬け。炭水化物はナシで。

0 件のコメント:
コメントを投稿